堕ちた天使の嘆く夜に

生あるものの鼓動も感じない程に、静まり返った刻限―――。
ひんやりと肌を刺激する夜間特有の寒気は、情ある者ならば不気味さを覚えるであろう。
己を蝕む病の為に眠りの淵へと手放していた意識が浮上してしまった吉継は、煩わしげに緩慢な所作で体を起こした。

(やれ…面倒なことよな…)

常に身近に所持している薬を手に取り、慣れた手つきで特に酷い患部へと塗りつけながらため息をつく。
視線を伸ばした先、床に就く前はきっちり締めていた筈の部屋の襖が開いていた。そこから冷えた空気が入り込んでいたらしい。
だが、吉継がため息をついた理由は他にあった。視線を自分のいる床から奥へと向ければ、案の定その奥の部屋に続く襖も開け放たれていた。

(さて…今宵はどこぞへ出歩いているのやら…)

おそらく奥の部屋にいた筈の者が既にここにはいないだろうことを察し、吉継は立ち上がり輿に乗る。開け放たれた襖から部屋の外へと出ると、暗闇の中に妖しく光る満ちた月が見えた。

(月よ…さぞ楽しかろな、あの男が闇に堕ち狂う様を眺めるのは…)

天に輝く物言わぬ月を見上げ、凝視する。込み上げてくる様々な感情に、知らず笑みが漏れる。
禍つ星々よ不幸をさんざにふらせ、と内心で呟き、吉継は夜の闇の中へと輿を進ませた。








寒空の中満ちた月の零す光の射さない暗がりの中で、静寂を引き裂き鋭く空を切る音が響いている。僅かばかりの月光を背に受けて、一人の男が刀を振るっていた。
誰が見ているという訳でもないというのに、ただ、無心に刀を振るうその男は、この世の者ではないかのような妖しさを漂わせていた。
すらりと細く長い肢体、闇夜に透けてしまいそうな青白い肌、面長の整った目鼻立ちの顔ーその男、石田三成は眉間に深い皺を作り不機嫌を露わにした表情で何度も虚空を斬り裂いている。
ただの素振りというには余りにも似つかわしくない雰囲気を纏いながら刀を振り続ける三成を、ずっと見ていたのは遥か上空にある満月だけだった。
もうどれ程の間そうしていただろうかー飽きる様子もなく、むしろ憂さを晴らすかのようにそうし続けている。全てを見透かすかのような今宵の月を睨みつけ、三成は無言で虚空を薙ぎ払った。
ふと、その視線の先に見知った姿が見えた気がしたが、構わず三成は再び刀を振り上げる。その刀が再度空を斬り裂くより先に、闇の中に三成を呼ぶ声が響いた。

「三成、主はまた眠りもせずそのようなことを…」
「…刑部」

抑揚の少ない声音でそう言いながら近づいてきたのは吉継だった。おそらく自分を連れ戻しに来たのだろう吉継の様子に、ようやく三成は刀を鞘に納める。

「さては、今宵の月に酔い狂わされでもしたか…?」

ヒヒッ、と不気味な響きで笑いかけてくる吉継に、三成は僅かに視線を投げただけで答えはない。だが、三成がここでこうしている理由は吉継には明白だった。
それというのも、ある時を境に三成はこうして度々眠らずどこかへふらふら出歩くようになったからだ。
大抵はただ夜空を睨みつけ心ここにあらずでただ佇んでいるか、今宵のように無心に刀を振るっているかのどちらかなのだが、どちらにせよ貴重な睡眠を取れずにいるのは明らかである。

「…眠れぬのであろ?」
「…っ」

眠りたくとも眠れない、眠る時間すら惜しい…そういう心情が三成をそうさせているのだということは理解していた。それを吉継が問いかけると、三成は僅かに息を詰めた。
吉継の問いかけは図星をついている。確かに、三成はあの日からまともに眠れたことはなかった。あの、大切な存在を奪われた日から。


豊臣秀吉ー三成が仕え心から尊敬し慕っていた時の覇王。その命は同じく秀吉の下にいた筈の徳川家康の手によって討ち取られた。豊臣の旗の下、列強なる国々に劣らぬ日の本を作るのだと信じていた家康の裏切りに、三成の全ては奪われてしまったのだ。
敬愛する主を奪われ、秀吉と同じく慕っていた豊臣軍師の半兵衛を病で喪い、友と信じていた男は豊臣を裏切って去って行った。
それからの三成は全てを奪った家康への憎しみで満たされ、今なお狂気の沙汰へと駆り立てられている。

「…家康…あの男がのうのうと生きている限り、私は休んでなどいられない…っ」

忌々しげに鞘に収めたままの刀を地面に打ち付け怒号する。抑えきれぬ怒りを吐き出す術をあまり数多くは持たない三成に、吉継は宥めるような声色で受け応えた。

「あいわかった…そうよな、徳川は我も憎い…」
「刑部!一体いつになったら家康と戦えるんだ!?私は…今すぐにでもあの男を切り刻んでやりたい!」

一度堰を切った感情に三成は声を荒げて吉継へ問い詰める。だが、そんな苛烈な激情を目の当たりにしても吉継は少しも動じずに三成を見やり、静かに返す。

「三成、主の怒りはよう解っておるわ…だが、まだ我らには力が足りぬ。今の徳川に対抗するには…こちらも十分な戦力を揃えねば、な」

他の勢力を味方に引き込み勢力を拡大している家康に立ち向かうには、今の石田軍ではまだ戦力不足だった。いくら三成が家康との戦を望んでいようと、そのままぶつかればただでは済まないだろう。最悪、ただの犬死に終わるかもしれない。それでは吉継の望む等しき不幸も訪れはしない。
だからこそ、今はまだ三成を失う訳にはいかないのだ。そうでなくとも、少なくとも友として三成を失いたくない気持ちも吉継の中にはあった。

「雑事は我に任せ、主は決戦の時まで力を蓄えその牙を研ぎ続けておればよい」
「…刑部、だが私は…っ」

まだ落ち着きを取り戻せない様子の三成にそう言って吉継は彼との距離を詰める。そして続く言葉を掻き消すように、三成の体を輿に乗せた自らの腕の中へと引き寄せた。

「…っ…?」

急に引き寄せられて体勢を崩した三成は、抗う間もなく吉継の腕にすっぽりと包まれ困惑に息を詰める。その腕の温もりに一瞬三成の思考回路は停止した。
そしてハッと気付いた時にはもう三成の体は吉継の腕でがっちり抱き込まれていた。

「ぎ、刑部…何をする…っ」

慌てて抜け出そうとするが、思いの他強く抱きしめられていて逃れられない。
そんな三成の様子に、楽しげな笑いが吉継の口元から零れた。

「あばれるでない、三成…」

楽しげに言いながら抱きしめた三成の背を手のひらで撫でる。するとくすぐったいのか三成はビクッと体をこわばらせた。その反応が気に入ったのか、吉継は繰り返し三成の背に手のひらを滑らせて。

「…っ…刑、部…っ」

陣羽織越しにとはいえ何度も背を撫でられて、三成はそれまでの荒ぶっていた感情よりも戸惑いの感情の方が強くなる。
眉間に深く刻まれていた皺も先ほどまでよりは僅かに和らいで。

「今、主に倒れられては困るのでな…我が眠れぬ主を寝かしつけてやろ」

吉継は三成を抱きしめたままそう言うと、懐から小瓶を取り出してその中身を自らの口に含んだ。その吉継の行動の意図がつかめない三成は困惑の眼差しを吉継の肩越しの虚空へと彷徨わせる。
すると、抱きしめられていた体が少し離れ、互いの視線が重なった。そして、そのまま近づいてきて。

「…っ、ん…っ」

次の瞬間、唇に柔らかい何かが触れ、口内に何かが入ってきた。だが、それが何かを理解するよりも先に、視界一杯に映る吉継の眼差しで思考が停止する。
そして、されるがままに三成は吉継が先ほど口に含んだものを飲み込まされた。

「…ぁ、なに…を、飲ませた…?」
「なに…主が余計なものに惑わされずに眠れるための薬を少々、な」

そう告げる吉継の声に三成は何か言い返そうと口を開きかけて、けれど何も言えずに口をつぐむ。急にそれまで全く感じていなかった眠気が襲ってきたのだ。

「…もう効いてきおったか?ちゃんと運んでやる故ゆっくり休め、三成」
「…ぎょうぶ…私は、まだ…眠るわけには…」

傍から聞けば甘やかしすぎかと思われそうな吉継の言葉に、それでもまだ抵抗する三成だが押し寄せてくる睡魔にうとうととしながら吉継の腕に体を預ける。既に言葉と態度がかみ合っていなかった。
結局そのまま吉継に身を任せ、三成は睡魔に負け眠りに落ちた。その三成の体を吉継は自らの膝の上に寝かせ、銀糸の髪に触れる。

「やれ、この男を寝かしつけるにはやはり度数の強い酒に限るな…」

眠りに落ち幾分か落ち着いた表情を取り戻した三成の顔を見つめ、吉継は小瓶の中の酒を軽く揺らした。
三成を抱き寄せた時に地面に落ちた彼の刀を拾い、ふと、空を見上げる。

(生真面目で、苛烈で…愚かなほどに不器用な、しかしそれを放ってはおけぬ我もまた…愚かよな)

狂気を内に宿し仄暗き闇へと堕ちゆく友の、その業はいかほどに深いのだろうか。そして、その隣を歩く我が身に課せられた罪もどれほど深いのか。
だが、共に堕ちていけるならばそれもいいだろう、と吉継は思った。これは三成を裏切った家康ではけして出来ない、闇を生きる自分にしかしてやれぬことだ。闇が光にはなれぬように、光もまた闇にはなれないのだから。

(我はどこまでも主と共に…三成)

今は深く傷つき自らの意志では満足に眠ることすら出来ない三成の、僅かな休息に安らぐその唇に、吉継はそっと己の唇を重ねた―――――。



2011.3.26up

pixivに投稿した吉継×三成のSSです。
時期的には秀吉様の死後数ヶ月くらいのつもりで書きました。
まだ若干吉継の片思い的な感じです。
絵とか全然描けてないんでpixivでは挿絵すら用意できてないのでせめてここで作風にあった壁紙でもつけてやろうかと思ってアップしました。


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